2008/05/12

佛の座


佛の座, originally uploaded by photowalker.

 日本に帰ってきた。

 台湾での取材そして撮影は、こんなにやりにくい仕事もあるのかと、愚痴の一つも言いたくなるような事が無かったわけじゃない。

 毎晩記者さんと二人で愚痴り合って、悔しいけどがんばろう、目にもの見せてやろうって慰め合った。
 

 日本に帰ってきてから、台湾での写真を大勢の人に見てもらった。

 多くの人が、感動した。

 日本人も台湾人も、カナダ人も、ドイツ人も。
 中には、泣いた人もいた。


 なにより、僕自身上がった写真を見て鳥肌が立った。
 この時は撮った瞬間に直感があった。

 
 持ち上げられ、ほめられ、感想を聞き、嬉しかったが、素直に調子に乗らない自分がそこにいた。ここ数日違和感を感じていた。

 
 写真は確かに、面白いものが撮れた。少ないキャリアながらそれなりに目は肥えているつもりだ。その僕が自分の写真を見て鳥肌がたったんだから、面白いものがとれたと言って間違いない。

 しかしながら、感動をし、感想を嬉々として伝えてくる彼らが見ているものと、僕が見ているもの、このギャップに僕は悩む。

 彼らは言う。

 「すごい!!本当にかっこいい!!実物よりかっこ良く見える!」

 まさにその通りなんだと、いまさらながらはたと気がついた。

 僕にとって現実の世界が、彼らにとって幻想の世界であるという事だ。

 現実を擦り映した狂気の映像こそ写真の正体だ。現実を無自覚に拡張し充足させる。見る者の視線をまっすぐに受け止め、ささやかな幻覚でもってその姿を返す。

 彼らが感動したのは写真そのものが持つ力であって、僕は呼び水でしかなかった。

 なぜ今までこの力に僕は無自覚だったのだろう。
 写真のが持つ力は僕の力じゃない。
 
 撮る者の手を離れ、写真が写真としてそこにある時、撮る者の力は何も及ばない。
 ただ写真を見る者の力がそのささやかな幻覚を享受する。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

タイシさんの言う通りです。激しく同感(笑)
写真は全方位を指すモンだと俺は信じる。何でもあり。ただし、自分で撮ろうとしているテーマによって写真の力が大小左右される。
俺も自分の力で撮ろうとしてない。写真の力を譲りながら撮っています。自分の力でやるとしたら、写真を選択したりまとめたり解釈したりする作業。

ありのまま現実を撮るというストレート・フォトが一番良いけど、たまにはアートちっくな写真も撮ります。何でもアリだからね〜