日本に帰ってきた。
台湾での取材そして撮影は、こんなにやりにくい仕事もあるのかと、愚痴の一つも言いたくなるような事が無かったわけじゃない。
毎晩記者さんと二人で愚痴り合って、悔しいけどがんばろう、目にもの見せてやろうって慰め合った。
日本に帰ってきてから、台湾での写真を大勢の人に見てもらった。
多くの人が、感動した。
日本人も台湾人も、カナダ人も、ドイツ人も。
中には、泣いた人もいた。
なにより、僕自身上がった写真を見て鳥肌が立った。
この時は撮った瞬間に直感があった。
持ち上げられ、ほめられ、感想を聞き、嬉しかったが、素直に調子に乗らない自分がそこにいた。ここ数日違和感を感じていた。
写真は確かに、面白いものが撮れた。少ないキャリアながらそれなりに目は肥えているつもりだ。その僕が自分の写真を見て鳥肌がたったんだから、面白いものがとれたと言って間違いない。
しかしながら、感動をし、感想を嬉々として伝えてくる彼らが見ているものと、僕が見ているもの、このギャップに僕は悩む。
彼らは言う。
「すごい!!本当にかっこいい!!実物よりかっこ良く見える!」
まさにその通りなんだと、いまさらながらはたと気がついた。
僕にとって現実の世界が、彼らにとって幻想の世界であるという事だ。
現実を擦り映した狂気の映像こそ写真の正体だ。現実を無自覚に拡張し充足させる。見る者の視線をまっすぐに受け止め、ささやかな幻覚でもってその姿を返す。
彼らが感動したのは写真そのものが持つ力であって、僕は呼び水でしかなかった。
なぜ今までこの力に僕は無自覚だったのだろう。
写真のが持つ力は僕の力じゃない。
撮る者の手を離れ、写真が写真としてそこにある時、撮る者の力は何も及ばない。
ただ写真を見る者の力がそのささやかな幻覚を享受する。
2008/05/12
佛の座
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1 件のコメント:
タイシさんの言う通りです。激しく同感(笑)
写真は全方位を指すモンだと俺は信じる。何でもあり。ただし、自分で撮ろうとしているテーマによって写真の力が大小左右される。
俺も自分の力で撮ろうとしてない。写真の力を譲りながら撮っています。自分の力でやるとしたら、写真を選択したりまとめたり解釈したりする作業。
ありのまま現実を撮るというストレート・フォトが一番良いけど、たまにはアートちっくな写真も撮ります。何でもアリだからね〜
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