2013/06/14

It's Me

Me.

2012/06/08

あ、随分ご無沙汰してた。

更新を随分ご無沙汰してた。
34才の誕生日にメガネをなくした僕はその後コンタクトレンズに。
最近趣味でボルタリング始めた。

そんな毎日。


-- iPadから送信

2010/10/19

忙しいとか

確かに忙しいといえば忙しいけれど、心を亡くすと書いて忙しいと言うのなら僕は忙しい訳ではない事になる。

写真の現場から離れて久しいけれど、人々がまだ見ぬ写真の為に今があるのだから楽しく無いといえば嘘になる。

ああ、どうしよう。

仕事が大変というか僕は今楽しい。

楽しさに心が傾いていると、いずれ何か大切なものを失って後悔する事になる。
仕事という甘美な言い訳にかまけている内に、僕はきっと大切な何かを失う。







-- iPad から更新

2010/10/01

33才

33歳(1)10年前、幸村真佐男・八木マリヨという二人の稀代の芸術家の薫陶を受けた。

33歳(2)当時大学の研究生をしていた僕にとって、この二人の一言になにやら大きな勘違いをしたのか、気がついたらカメラマンに成っていた。

33歳(3)当時の僕はおおきく心理学、中でも認知心理学や学習・教育心理学に傾倒していたし、その僕がカメラマンに成ってしまうなんて、夢にも思っていなかった。

33歳(4)その当時、八木さんのアトリエで出会った岡本太郎の書籍は僕に衝撃を与えた。

33歳(5)岡本太郎がほかの何者でもなく岡本太郎であり続けた。その事実を僕はどう解釈していいのかもわからずただただ憧れた。岡本太郎がそうであったように、僕は他の何者でもなく、ただ公文大志に成ろうと志した。

33歳(6)それはまず絶望から始まったのだと思う。戸籍を見ずとも、僕はずーと僕自身であったし、これから先、どうあがいても他の何者にもなり得ない。公文大志は公文大志の他の誰にも、何者にも成り得ない。

33(7)その現実は、何者かに成ろうとしていた僕を酷く打ちのめし続けた。それから10年。岡本太郎が岡本太郎であり続けたように、公文大志であり続けようする僕は気がつけば沖縄でカメラマンをしている。

33歳(8)10年前、八木さんの書斎で見つけ読んだの岡本太郎の著作。本物の芸術家に出会い、芸術家の下で暮らし、その薫陶受け、衝撃の出会いをした岡本太郎の著作のタイトルは「沖縄文化論」だった。

33歳(9)今思えば何やら運命的な物を感じないでもない。

33歳(10)僕はカメラマンに成ろうとしたわけじゃない。ただ公文大志に成ろうとしただけだった。他のカメラマンと同じように、カメラマンとして生きていく内に、この職業の持つ不安定さに嘆きもしたが、それはもっと本質的な問いから僕を遠ざけて忘れさせた。

33歳(11)ここで茂木さんのオスカー・ワイルドについてのTweetをRTしようと思う。

RT @kenichiromogi 軽蔑(10)『獄中記』で、オスカー・ワイルドは記す。「銀行家になりたい人は、銀行家になる。弁護士になりたい人は、弁護士になる。自分以外の何ものかになりたい人は、それになって終わる。一方、自分自身になりたい人は、どこに行くかわからない。どこに流れ着くか、自身でも知らないのだ。」

33歳(13)このTweetを読んで合点が行った。ここ10年僕が漠然と抱えていた、不安や孤独感、そして充足と幸福感。それらがどこからきていたのか、そしてどこに行くのか。誰かにその答えを求めても、誰も答えられない。僕がとるコミュニケーションは見る人にとって何処か検討違いで物悲しいか

33歳(14)それはそうだ。僕自身ですら何処に行くかもわからない未来を「土台」に話をして居たのだから。ただ、幸運にもよくわからないけどおもしろい奴という理由で僕は人々に良く可愛がられている。僕はひどく幸運で恵まれた星に生まれた。

33歳(15)先日、父親に会いに行った。どうして僕が父親の心配をしているのか。考えて見れば、僕は彼にいつも苛立っていた。恐らく本人にその自覚はないのだと思う。中学3年生の頃、僕は確かに父親に一度捨てられた。

33歳(16)脳梗塞を持ちつつも働く彼に訪ねてみた。なぜ休まないのかと。「やることがあるからな」ただそう言われた。それが死に向かうことへの恐れから出た言葉なのか、それとも、仕事の先に入る何かに向けての言葉なのか、僕にはまだわからない。

33歳(17)父親の言葉を胸に、そうして僕は33歳になった。以上、33才という誕生日を迎えての連続Tweetでした。