写真は潜在的な遺影であるという宿命から逃れられない。
我々は写真に映る全てを失ってしまう。
それはつまり、父親を失ってしまう宿命にあるということだし、母親を、祖母を、祖父を、弟を、母を、妹を、家族を失ってしまうということだ。
写真は、写真家にとって体験そのものであり、まなざしの痕跡に他ならない。
実態は複製しない、写真はただ眼差しの痕跡だけを残す。
このことを僕は知っているのに、今日、父の脳梗塞の話を聞いて動揺してしまった。
幸い大事には至らなかったけれど、それでもやはり、僕は今動揺している。
写真がまなざしの痕跡であって、その実態は移ろっていく。
そのことを知っていたのにもかかわらず、だ。
2 件のコメント:
“写真は潜在的な遺影である宿命から逃れられない・・・”
確かに明日、“この写真”は遺影になるかもしれない。
生は死を内包しているんですね。
私はつねに心の底の底のずーっと奥深いところで死を意識し恐れているの。
いつかやってくるであろう終末が怖くてたまらないのです。
自分に関してだけでなく、近しい人たちに関しても同じく。
でも、考えてもどうしようもないし、ともかく私は生を受けてしまったのだから歯を食いしばって生きていくしかない。
そういえば、写真と魂の話が田口ランディの小説にあったよね・・タイトルが思い出せない・・
公文さんはなぜ写真を撮るの?
あなたの写真を見ると私はいつも心をギュッとつかまれる気がするの。
人は死ぬって事をついつい忘れてしまうんだ。
でも、思い出すと人に少し優しく出来るようになるよ。
誰の所にもやってくる事だから、怖がって歯を食いしばるだけじゃなく、迎え方を考えた方が良いんだろうね。
僕が写真を撮る理由はそれが生業だし、楽しいからだよ。
それから僕をちょっと買いかぶり過ぎだ。
ハートをギュっとするより、女性のケツをギュッてしたい変態という名の紳士だよ。
あと、田口ランディは読んだ事ない。
思い出したら題名を教えて下さい。
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