その日、いつものように僕は仕事に出る所だった。
玄関前に投げ出された靴を見るまでは。
twitter で思わず実況中継してしまうほど、僕は何処か熱に浮かれて、そして写真を撮った。
僕はずっと見ていた。
よく忘れてしまうが、生きとし生けるもの全てはいずれ死ぬ。
ここでこうして文章を書いている僕だって、これを読んでいる貴方だって、死んでいく。
生きる事の終い方は人それぞれだろうけれど、やっぱり誰だって死んでいく。
僕がシャッターを切るのは、それを生業としているのと同時に、それが愛しいからだ。
写真は暴力であるにも関わらず写真家は暴力でしか世界を愛せない。
写真を撮るという行為は写真家がもつ偏執的な自己愛の顕在にほかならないのではないだろうか?
写真家が世界を愛した結果、つまり写真は潜在的な遺影である可能性から逃れられない。
そっと自分の携帯電話のデータを見てみると良い。
画面に映る車はもう買い換えたんじゃないか?
お気に入りのコップを割ってしまってはいないか?
おいしそうと思ってとった料理はまだそこにある?
その子犬はもう大きくなってしまったんじゃないか?
母親はシワの一つでも増えたんじゃないか?
父親は? 子供は? 祖母は? 祖父は? 恋人は? 友人は? 自分自身は?
写真を見てしみじみと時間を感じ、当時の様子に思いを馳せる事はないか?
言うまでもなく、写真に描かれている世界はもうこの世には存在しない。
僕らはそれをわかっている。
警察の実況見分が終わり、事情聴取も終わった後ようやく開放された。
仕事に行くもののまったく集中はできない。僕は家に帰りたくなくなった。
当然と言えば当然だとおもう。何にしろ死因すらわからないのだから。
殺人や伝染性のある病気であれば絶対に帰りたくないし。
とにかく警察に電話をしてみた。
個人情報保護の観点からご家族意外の方に死因は伝えられない
との事だった。
故人の個人情報か。あー、俺今すげぇ不謹慎なオヤジギャク浮かんだ。これはみんなに話したらドン引きされるなー。と、思いつつ、こう問い直す。
「もう一度言いますが、第一発見者で隣人の公文と言います。おそらく調書にも残っていると思うので確認をしてみてください」
「電話番号は090-xxxx-xxxx 、そう、そうです。なぜ死因が知りたいかと言う話ですが、殺人だったら絶対に家に帰りたくないし、伝染性のある何か妙な病気だったら怖くて帰れないじゃないですか」
ご安心ください、そのような報告は本日は入っていないので大丈夫ですよ。
「わかりました、ありがとうございます」
電話を切った後、僕は1週刊程家に帰らなかった。
つづく