写真の現場から離れて久しいけれど、人々がまだ見ぬ写真の為に今があるのだから楽しく無いといえば嘘になる。
ああ、どうしよう。
仕事が大変というか僕は今楽しい。
楽しさに心が傾いていると、いずれ何か大切なものを失って後悔する事になる。
仕事という甘美な言い訳にかまけている内に、僕はきっと大切な何かを失う。
-- iPad から更新
僕が彼女にあった最後の日。
「写真とってくれるの?」
「うん」
確か、これが最後に交わした言葉。
二の腕がプルプルですげーたれててよく触ってた。
鼻の穴が大きくて、親指が鼻の穴に入るのを見せてくれた。
こたつに入るときに、肩まで布団をかけるもんだから冷気がこたつの中に入ってきて「寒い!」っていつも文句言ってた。
ドラクエIVが欲しくて妹と年金にたかったのをさっき思い出した。
ごめんなさい。それからありがとう。
写真は潜在的な遺影であるという宿命から逃れられない。
我々は写真に映る全てを失ってしまう。
それはつまり、父親を失ってしまう宿命にあるということだし、母親を、祖母を、祖父を、弟を、母を、妹を、家族を失ってしまうということだ。
写真は、写真家にとって体験そのものであり、まなざしの痕跡に他ならない。
実態は複製しない、写真はただ眼差しの痕跡だけを残す。
このことを僕は知っているのに、今日、父の脳梗塞の話を聞いて動揺してしまった。
幸い大事には至らなかったけれど、それでもやはり、僕は今動揺している。
写真がまなざしの痕跡であって、その実態は移ろっていく。
そのことを知っていたのにもかかわらず、だ。
沖縄県読谷村に引越してまいりました。
今日始めて、ゆっくり夕日を眺める時間ができた。
癒されるとか言う程疲れていないはずだったんだけれど、僕は自分の疲れに割と無自覚なようで、6月から始めて今日は一日休んだんだけど、自分でも思ってないくらい、この景色には打たれた。